「円空さん」ってどんな人?





江戸時代 全国を遊行し、生涯に十二万体の微笑の神仏像を彫った?
何のために?

円空さんが彫られた、神仏像のことを「円空仏」といいます。
「円空仏」は神仏像を彫る儀軌(ぎき)〔=きまり〕に拘らない、鉈ばつりなどと言われる、 丸太のままとか二割、三割、四割、その割れ肌、節などを そのまま活かし、荒彫り? 簡潔に いつも 豊かな微笑みをたたえていて、たくさんの人々に希望と喜びを与え、 人との触れ合い、生物が生きていく上に なくてはならぬ自然を大切にと呼び掛けて いるようです。

今、円空さんに学ぶことは多いのでは?
円空さんの出生については 不詳な点がいまだに多い。先年、群馬県富岡市にある 上野国一宮貫前神社旧蔵の大般若経奥書に「壬申年生 美濃国 円空」と自書した ものが見つかり、これで出生は寛永9年(1632年)と確定した。美濃の国は羽島市の 上中町とされている。
青年時代の円空さんに関する記録も何も発見されていない。
そして寛文3年(1663年)円空さん数え32才の時からようやく足跡が知れる。

北海道巡錫から帰った円空さんは、寛文9年名古屋鉈薬師堂の大作、十二神将など 17体を、明(みん 現在の中国)からの帰化人、張 振甫の依頼で二代尾張藩主 徳川 光友 贈与の管材(名古屋城築城の余材)をもって造顕。
延宝4年、名古屋市守山区竜泉寺で馬頭観音ゃ千体仏を彫り。次いで 荒子観音寺 では 3mを超える 仁王像一対を作り、その余材で木端仏、千面菩薩など千数百体 を造顕した。
円空さん生涯12万体の造顕を悲願にしたというが、高山市 桂峯寺に遺る像背に 「元禄3年十万体作己」墨書銘が遺るので入寂した元禄8年までにはその12万体 は彫り遂げたものと思う。
元禄8年7月15日盂蘭盆、関市池尻の長良川畔で入定の素懐をとげられた。
時に 円空さん 64才
 




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