荒子観音寺・山門の仁王




今から三百年程前、延宝四年(1676)のことです。
秋の日も暮れかかった荒子の観音寺に一人のみすぼらしい坊さんが 山門をくぐっていったのを誰も気にしませんでした。それほど、な に気なくいかにも自分の屋敷に帰ってきたというふうでした。

当時の観音寺の住職は円盛(えんじょう)という名の坊さんで、太っ腹 の人らしく、先程の坊さんと眼が合いましたが、どちらとも、物言う ことなく、叉来たかというくらいに彼を迎えいれました。

そまつな夕餉(ゆうげ)を、両手を合わせてなめるように頂戴し、椀を 置くまで、すべて無言です。それで二人の間柄は親しみの情がなんと なくかょつているようで、まことに奇妙な仲でした。長かった秋の その夜もやっとあけました。

二人は朝まだきの頃、僧衣をからげて、境内でも一番大きい檜を選 んで、両方から鉈をふるつて切りたおそうとしました。
「エイ。」「オウ。」
二人の掛け声は荒子村の百姓たちの家々にひびき渡りました。 「おお早や、観音寺の和尚さま、もうお起きになった。」 「早くからせいがでやす。」 ねむい目をこすりながら、百姓たちは話し合いました。
やっとの思いで、切り倒した檜の大木がながながと横たわりました。 実はその木は円盛住職と例の坊さんのお二人で、寺の山門に安置 する仁王をつくる素材です。

しかし、なにはともあれ、大きな木ですので、二人だけの力で動か すこともやっとです。そんなことでは仁王さんを彫ることがなかなか 困難でです。二人はもてあまし気味に考えこんでいました。そこへ、 村の子供達が遊びにきて、「和尚さんたち、どうしたんだべ」とたず ねました。

住職の円盛さんは大木が重くて、自由にとりあつかうことができな いことをこぼしました。そしたら一人の子が「そんなこと、わけな いことじゃ、大木をあの池の中にほりこめばいい」あっけにとられた 坊さんたちはよく考えてみると、「そうや、おまえのいうとおりじゃ」 とて、大木を本堂の裏にある弁天ケ池まで、ころがしていきました。 木の浮力によって大木を自由にあつかえるようになりました。

それから二人の坊さんは一生懸命に、鉈とのみをふるって、仁王 一対作りあげたとのことです。

もう、一人の坊さんはいいことを教えてくれたお礼にと、田吾作ゃ お花たちに、余った木屑で目鼻と髪を彫っただけの可愛い仏さまを、 一体ずつくれました。

その坊さんこそ、後で十二万体という沢山の仏像をつくった円空  上人でした。
 


「むかしばなし」     中川区風土記より




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